大地は海に鉄を供給している
2023/10/19
大地は海に鉄を供給している
酸素の増加に伴って大進化を遂げた私たち(好気性の生き物)には遊離酸素 O2 は無くてはならないものとなりましたが、現在の地球環境では鉄は川の水にも海の水にも長時間溶け続けていることができません。なぜなら水中に溶け出した鉄(鉄イオン)はすぐに遊離酸素で酸化されて水酸化鉄となって沈殿してしまうからです。
海で生命が生まれた当時の地球の海では周囲に豊富な鉄イオンがあったことから、生命の維持システムの中に鉄は必須の成分として組み込まれたのですが、その後の酸素の大発生の過程で鉄イオンは極めて微量な存在となって生命体の周囲から失われて行きました。
と言っても、資源としての鉄そのものの存在が無くなったのではありません。
水に溶けた状態の鉄、すなわち鉄イオンが微量な存在となっただけです。生命体にとって体内に取り込むことのできる鉄は水に溶けている(イオン化した)状態のものに限られますから、固形物としての鉄を水溶物に変える生物側の対応が必要になったのです。植物の多くは根から酸を出して不溶態の鉄やミネラル成分を溶かして水溶物にする術を獲得しました。昨今サプリメントとして売り出し中のフルボ酸などもその一つです。さらに動物は体内に鉄を取り込んだ植物を食べることで間接的に鉄を摂取することとなりました。つまり陸上では植物が地殻内の鉄を取り込むことで食物連鎖の上位の動物にも鉄が供給される仕組みが完成されたのです。
一方海への鉄の供給は陸上の動植物の残骸を生活の場とする様々な微生物の働きに因っているものと考えられます。地殻には数%といわれる不溶態の鉄が存在しますので、樹木の落葉が作る腐葉土の中の鉄は、酸化されることなく安定した状態で海まで運ばれ、生物に利用されます。それは腐食質の中のフミン酸やフルボ酸と呼ばれる有機酸が鉄と結びつくと、その結合する力は遊離酸素との結合力よりも強いため酸化されることなく川を経由して海にたどり着けるからです。
試みに鉄イオンの多い湾内と鉄イオンの少ない外湾の海水を用いて植物プランクトンを培養してみると、鉄を加えさえすれば外湾の海水も湾内の海水同様に大いに増殖することがわかりました。すなわち外湾の海水は栄養分が不足しているのではなく、鉄が不足しているだけだったのです。
海は広いな大きいなとは言われますが、そのうち生物が生息しているのは陸地に近いごく限られた海域でしかありません。それは食物連鎖の最底辺にある植物プランクトンを作り出すために不可欠な鉄が陸地から供給されているからです。あの広大な海の大部分は陸上の砂漠と同様に生産力が低いがゆえに生物の棲めない不毛のエリアなのです。その理由は陸地から供給される鉄の多くが沿岸部で消費されてしまい、陸地から隔たった外湾部にまで到達しにくいからだと考えられています。
南極パラドックス
栄養塩類豊富な海流が何らかの事情で海面まで上昇すると、植物プランクトンの大発生を促し、それを餌とする小魚やさらに彼等を捕食する大型魚種などが集まり漁獲量の多い漁場を形成します。このような海流の上昇を 湧昇(ゆうしょう)と呼びます。人工的な構造物を作って湧昇を促す試みも行われているほどです。ところが南極海では栄養分の豊富な深層海流が南極大陸にぶつかって上昇するにもかかわらず、植物プランクトンの大発生が起こらないという大きな謎があり、これを南極パラドックスと呼んでいました。
近年水中の微量金属の測定技術が飛躍的に発達して分かったことは、これまでの測定方法は極めて不正確なもので、船舶や測定装置などの金属イオンが測定値に誤差を及ぼし、実際の値よりも千倍近くも多い数値が出ていたことが明らかになってきたのです。また太平洋の赤道域、北東太平洋にも南極周辺海域と同様に高栄養にもかかわらず植物プランクトンの少ないエリアがあることも分かりました。
これらをHNLC(High Nutrinet Low Chlorophyll 高栄養低クロロフィル)海域と呼びます。
外洋における鉄の濃度はnM(ナノモル)という極めて微量のレベルしかないことがわかりましたが、HNLC海域に共通しているのは鉄分がほとんど検出されないということでした。それらの研究からは植物プランクトンの発生から始まる生物生産は鉄の不足によって制約されているという「鉄仮説」と呼ばれる仮説が生まれました。
南極で採取された氷柱に閉じこめられている大気や化学物質を調べると過去の気候やそれに及ぼした要因が推定できます。ロシアのヴォストーク基地で採取された氷柱の分析によると、鉄の含有量が多い時期は二酸化炭素濃度が低く、鉄の含有量が少ない時には二酸化炭素濃度が高いことが分かりました。
氷河期の南極周辺は強風が吹き荒れており、周辺の大陸から鉄分を含んだ塵や砂埃などが大量に供給されたのではないかと推測されます。皆さんご存じの中国大陸から飛んでくる「黄砂」は悪いイメージばかりが先行していますが、実はあの黄色は鉄鉱石の一種である「黄鉄鉱」の色であり、海の生産力を左右する重要な要素でもあるのです。
太平洋の亜寒帯の海域では栄養塩類は豊富なのに植物プランクトンの生産量の多いエリアと少ないエリアがあります。その差は何に起因するかと言いますと、風によって運ばれる「黄砂」の到達距離との関連であることが分かってきました。
「黄砂」の小さな砂粒の中にも微量な鉄分が存在するのですが、その量は海水中の濃度に比べて大変に大きなものです。偏西風などによって運ばれた「黄砂」が届く範囲では海の生産力は高く、そのエリアをはずれると鉄が足りないというだけのことで、生産力が激減してしまうのです。ことほど左様に海は鉄に飢えている実態があるのです。
海洋鉄散布実験
「鉄仮説」を検証するために実際の海洋に鉄を散布して植物プランクトンの増殖を計測するという実験が1993年から2004年にかけてのべ10回各国の研究機関によって行われました。これには日本も参加していますが、概ね仮説は実証されたと考えて良さそうです。相手が広大な海洋であるだけに、鉄の供給によって生産された有機物沈降の部分の解明に難しさが残されているようですが、「鉄仮説」は「鉄理論」として多くの科学者から支持され始めています。
散布実験に際して海中から大気中への二酸化炭素の放出量が60%減少したとされる論文も発表されていますので、ひょっとしたら地球温暖化を解決する大きな可能性を鉄が握っているかもしれません。微量な鉄の存在が植物プランクトンの増殖を左右していることは明らかになったのですが、二酸化炭素を吸収した植物プランクトンが海の表層で分解してしまったり、他の生物に直接あるいは間接的に捕食され、呼吸や消化分解によって海水に戻されるのであれば、炭素の固定にはならず地球温暖化の抑止効果は得られません。
生体の死骸や残渣として深海に沈降し蓄積する事実が確認されれば二酸化炭素を海中深くに閉じこめられる可能性が浮かび上がってきます。しかし生態系への影響を危惧する見解を述べる研究者もいることから、その方法論についてはなお慎重な議論が交わされる必要があるでしょう。
地球温暖化については残念ながら効果的な対策がほとんど見あたらないことから、鉄の海洋散布には大きな期待が寄せられています。
NPO法人「森は海の恋人」
今回の震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼に拠点のある自然環境保全を目的とする組織です。主な活動は森を育てて海を豊かにする為の植林、育林活動ですが、その根底にあるものは、山の植物がもたらす微量成分が海の生産力を左右するという発想です。
内湾で養殖業を営む漁師さんたちがそこに流れ込む河川の上流の山に広葉樹を植林して、養殖環境を保全しようという活動で、「漁師山に登る!」というキャッチフレーズがもてはやされました。法人設立後すでに20年以上の歳月が過ぎていますが、その活動に対する理解と評価は高く、法人の代表である畠山重篤氏は京都大学でフィールド科学教育センターの森里海連環学という新しい概念の学問で客員教授を務めています。
山の植物がもたらす微量成分とはまさにフルボ酸鉄そのものを意味しています。
海の生産力を日々実感している養殖業者である彼等であるからこそ、鉄と生物との因果関係への理解が深いのだと思います。
NPO法人「森は海の恋人」のHPはこちら
「鉄炭団子」(てったんだんご)
使い捨てカイロの中身は鉄と炭でできています。これにおかゆとクエン酸を混ぜて直径5㎝ほどの団子状に丸めたものが「鉄炭団子」です。この団子をヘドロにまみれた河川や海岸に投入するだけで、ヘドロが激減し悪臭も消え、水質が改善されて様々な水生生物が蘇るという環境改善のための取り組みです。山口県の瀬戸内海側で成果を上げているそうですが、どういうわけかヘドロの少ない日本海側では効果が顕著ではないそうです。
金属にはそれぞれ固有の電位があります。異なる金属を電気的に結合して電解液(海水)の中に浸漬すると、電位の高い金属から低い金属に電流が流れます。いわば小さな電池が作られることになるのです。電位の低い金属は腐食が促進されて金属イオンとして海中に溶け出します。
その結果電位の高い金属は腐食を免れて強度を維持することができるのです。海岸の岸壁や沖合のシーバースなどはすべて鉄で作られていますが、これらが海水中にもかかわらず錆びずに形を残しているのは電気防蝕というさび止めの技術が施されているからなのですが、他の金属を犠牲にして鉄を錆から守る方法を流電陽極方式と呼んで電気防蝕の重要な技術の一つとなっています。
海水中の鉄の構造物を錆から守るには、アルミニウムや亜鉛など鉄に比べてイオン化傾向の高い(電位の低い)金属のインゴットを電気溶接で取り付けますと、鉄は錆びずにアルミや亜鉛が犠牲になって海水中に溶け出して長期間構造物の崩壊を防ぐことができるのです。
たとえば10円玉と古釘を電線でつないで海水の中に入れますと、10円玉はいつまでもぴかぴかなのに古釘は真っ赤に錆びて、やがて溶けて無くなってしまいます。
これと同様に鉄と炭(炭素)を電気的に結合し(団子にし)て、海水中に放り込むと炭に比べてイオン化傾向の高い鉄が溶け出し、海水中に二価鉄イオンが放出されることになります。ヘドロの堆積しているような水底はかなりの嫌気環境となっていますので、二価鉄イオンは遊離酸素で酸化されることなく、ヘドロ周辺の微生物に利用されることとなり、その活性を高める結果、ヘドロが分解される好循環が励起されるものと思われます。
団子にクエン酸を混ぜるのは鉄を直接溶かし出す他に、フルボ酸鉄に似た有機酸鉄を作ることで遊離酸素による酸化を防ぐ効果が期待できると考えているのでしょう。
この運動が明らかな改善結果をもたらしている事実から、汚染された海の復活にまず必要とされるのが鉄イオンであり、その絶対量の多寡が運動の成否に密接に関わっていることが立証されたと言えるでしょう。
鉄炭団子の考案者 杉本幹生氏 が起業した水質改善のための会社(株)エプトのHPはこちら